日向山
2012年10月03日
2012年9月26日
この日に安養寺山に続いて、日向山(にっこうやま)に登りました。
場所はこちら
大きな地図で見る
前回の安養寺山に続いて地図には載っていない小さな山です。
道路地図で見ると日向山が書いてます。


日向山と書いって、「ひゅうがやま」と読みそうになりますが、『にっこうやま』と読みます。
標高は222mと低い山ですが、三上山のすぐ近くにある山です。
平野の中にポツンとひとつ突き出た山で、近江の山を象徴しています。
周りには田んぼと工場に囲まれて、高い建物がなく、登山口からも三上山がキレイに見れます。

山頂までは石段が721段造られていて、頂上までは15分ほどで簡単に登ることができます。


石段の続く山頂近くには「竜王宮」と書かれた鳥居が迎えてくれます。

頂上は広場になっていて、休憩所があります。

ここから見える景色は絶景です。


登山口より三上山がドドーンと見え、栗東市と草津市の街並が見えます。
反対側には栗東、金勝の山々が眺められます。

ここの山から眺望がきくことの利点から、戦国時代には東海道を見下ろせる重要な地点であることから、「多喜山城(たきやまじょう)」と呼ばれる城が、安土城を造るより前に織田信長によって造られたとされています。
いつの頃か城は廃され、本丸の跡には「竜王神の祠」がまつられて、信仰の山として人々に親しまれるようになったそうです。

残念ながら、この山には磐座がありませんでしたが、この祠に磐座があったのじゃないかと思われる形跡がありました。


手軽に登れる山で、歴史の上でいろんな人の手が加えられている山ですが、大昔の神話の頃には三上山を中心とした近江高天原を考えると重要な位置にある山ではないかと考えられました。
(o^^o)
この日に安養寺山に続いて、日向山(にっこうやま)に登りました。
場所はこちら
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前回の安養寺山に続いて地図には載っていない小さな山です。
道路地図で見ると日向山が書いてます。


日向山と書いって、「ひゅうがやま」と読みそうになりますが、『にっこうやま』と読みます。
標高は222mと低い山ですが、三上山のすぐ近くにある山です。
平野の中にポツンとひとつ突き出た山で、近江の山を象徴しています。
周りには田んぼと工場に囲まれて、高い建物がなく、登山口からも三上山がキレイに見れます。

山頂までは石段が721段造られていて、頂上までは15分ほどで簡単に登ることができます。


石段の続く山頂近くには「竜王宮」と書かれた鳥居が迎えてくれます。

頂上は広場になっていて、休憩所があります。

ここから見える景色は絶景です。


登山口より三上山がドドーンと見え、栗東市と草津市の街並が見えます。
反対側には栗東、金勝の山々が眺められます。

ここの山から眺望がきくことの利点から、戦国時代には東海道を見下ろせる重要な地点であることから、「多喜山城(たきやまじょう)」と呼ばれる城が、安土城を造るより前に織田信長によって造られたとされています。
いつの頃か城は廃され、本丸の跡には「竜王神の祠」がまつられて、信仰の山として人々に親しまれるようになったそうです。

残念ながら、この山には磐座がありませんでしたが、この祠に磐座があったのじゃないかと思われる形跡がありました。


手軽に登れる山で、歴史の上でいろんな人の手が加えられている山ですが、大昔の神話の頃には三上山を中心とした近江高天原を考えると重要な位置にある山ではないかと考えられました。
(o^^o)
Posted by 近江磐座研究会 at 19:03│Comments(2)
│日向山
この記事へのコメント
石田町の石田一族供養碑の場所にも、石棺の一部で、昔は橋に使われてたと説明された、石板が有ったりしますし。
恐らく、石田町近隣の息長古墳群は、横山城やその他の築城によって、かなり破壊されたり利用されたりしたことでしょう。
息長広姫陵も、前方後円墳が、農地化や宅地化で破壊されてしまってます。
湖南湖東地区でも、墓石やお地蔵さんをも石垣にした信長さんですから、もし磐座が存在してたら、迷わず築城に使ったでしょうね。
既に製材されてるし、こりゃ便利じゃわいなんて。
廃物利用や移築も多かったそうですから、周辺の磐座から石材が運ばれて、多喜山城に使われてた石も、安土城や八幡山城に運ばれて使われた可能性も大きいですし。
最近、古墳の石材に書かれた墓籍の様な文字を判読する技術が出来てるそうで、古墳の主も判明してるとか。
磐座や石垣の文字を調査したら、何等かの表記が有るかも知れませんね。
恐らく、石田町近隣の息長古墳群は、横山城やその他の築城によって、かなり破壊されたり利用されたりしたことでしょう。
息長広姫陵も、前方後円墳が、農地化や宅地化で破壊されてしまってます。
湖南湖東地区でも、墓石やお地蔵さんをも石垣にした信長さんですから、もし磐座が存在してたら、迷わず築城に使ったでしょうね。
既に製材されてるし、こりゃ便利じゃわいなんて。
廃物利用や移築も多かったそうですから、周辺の磐座から石材が運ばれて、多喜山城に使われてた石も、安土城や八幡山城に運ばれて使われた可能性も大きいですし。
最近、古墳の石材に書かれた墓籍の様な文字を判読する技術が出来てるそうで、古墳の主も判明してるとか。
磐座や石垣の文字を調査したら、何等かの表記が有るかも知れませんね。
Posted by 毎度の それは です at 2012年10月10日 15:27
それは さん、いつも情報をいただきましてありがとうございます。
そうなんですね、磐座もおそらく歴史の中で、石材に使われたこともあるそうですね。
街中の山ほど整備されていている感じです。
ありがとうございます(^^)
そうなんですね、磐座もおそらく歴史の中で、石材に使われたこともあるそうですね。
街中の山ほど整備されていている感じです。
ありがとうございます(^^)
Posted by 近江磐座研究会
at 2012年10月12日 22:04
