小林正観さん 近江高天原について語る
2013年02月27日
『近江磐座研究会』の発案者、小林正観さんが長浜市での講演会の前半で、高天原について話をしているのを文章にします。
長い文章になりますが、しばらくお付き合いください
◎自己紹介
この人は何者なのかと言うと、本業は旅行作家なんです。
長浜とか滋賀県とか琵琶湖とか結構詳しくて、滋賀県に宿泊した泊数をいうと、100泊はしていまして、
実は滋賀県は私にとってけっこう興味が深い場所なんです。
◎古事記、神話の話
このことを話すのに、神話の話をしなくちゃいけないのですが。
・・・・以下、簡略して紹介します。
・天地初めの神、『アメノミナカヌシノミコト』が混沌とした渦の中から、日本列島を作ります。
・アメノミナカヌシノミコトの右目をこすると、
『イザナギノミコト』が、
左目をこすると、
『イザナミノミコト』が産まれます。
・この2人が日本に降り立って、結婚しなさいということになります。
そしてできた子供のひとり目が、
『アマテラスオオミカミ』
二人目が、『ツキヨミノミコト』
三人目が、『スサノオノミコト』です。
・スサノオが高天原で悪さをするので、アマテラスオオミカミが天岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまいます。
・アマテラスが天岩戸から出る条件として、スサノオを高天原から追放してほしいと言い、スサノオは高天原から出ていくことになります。
・スサノオは出雲の国に降り立つと、ひとりの人が悲しんでいます。
訳を聞くと、ヤマタノオロチが悪さをして、自分の娘を生贄に差し出さなければいないということです。
そこで、スサノオが酒樽を用意しろと言い、お酒を飲んで酔っ払ったオロチを切り落とします。
・ヤマタノオロチの尻尾を切ると、剣が入っていました。
これは後に、『草薙の剣』といい、皇室の三種の神器になりました。
・スサノオは助けた娘、『クシナダヒメ』と一緒に住むことになります。
この場所が八重垣神社(やえがきじんじゃ:島根県松江市)でした。
・スサノオノミコトとクシナダヒメが結婚をして、その孫に、
『オオクニヌシノミコト』が産まれます。
・スサノオの武勇の荒ぶる力と、オオクニヌシの心優しい温かさで、出雲の国は巨大な国に支配を広げていきます。
◎出雲の支配地域
出雲の国は九州、中国、四国全部と、日本列島半分を出雲が支配していきます。
糸魚川の『安曇野(あずみの:長野県安曇野市)』は“いずも”がなまって出来た地名です。
その他、渥美半島、熱海、伊豆大島、伊豆半島も『あずみ、えずみ、あずみの』からなまった言葉です。
今、土地のあざ名が全部書いているの風土記に、
『出雲国風土記(いずものくにふどき)』
というのがあります。
これまでに言った、出雲の支配地域の土地の名前が全部書いているのですが、支配地域の中にありながら、ぽっかりと穴が開いているかのように支配をしていないところがあるんです。
これが、高天原だったのではないかというのが私の推論です。
それはどこかというと・・・・
「湖東平野、琵琶湖の東岸です。」
滋賀県は小林正観の説によると高天原だったんです。
◎磐座(いわくら)研究家
小林正観は旅行作家と共に磐座の研究家だったんです。
今までに、神や宇宙と交信しているという人、10人に、
「磐座は何年前のものか」、と聞くと10人とも
「3万年前」と答えた。
そのあとに、磐座とは何かと聞くと、10人とも答えられなかった。
磐座を知らないで3万年前と答えたが、磐座が何かと聞くと答えられなかった。
(注:この10人といのは、横のつながりはなく、まったく別の場所で、別のときに聞いたそうです。)
◎近江の磐座
磐座は3万年前から、三角形のきれいな山のてっぺんにあるのですが、これを、
「神名備山(かんなびやま)」と言います。
近江には磐座を持っている山が50個もあるんです。
日本で一番密集している。ほとんどの山に登りましたが、日本でここだけおかしい。
滋賀県には滞在日数が多くて、三角形の山を見ると登ってみて磐座を確認した。
ひとつの地域で三角形の山があり、磐座があるところは他にないんです。
ここが高天原だったのではないか。
高天原は日本列島の中で稲作をするところ、それには淡水が絶対に必要なんです。
20万、30万の人たちが生活をするには、平坦の土地で、水があるところ。
条件として湖東平野しかない。
◎磐座の重さと、日本一の磐座
湖東平野の高天原に3万年前に磐座を作っていた人々がいた。
現在のクレーン車では35トンまでなら持ち上げることができます。
磐座はどのくらいの重さだったのでしょうか。
縦、横、高さが、3m×4m×5m、合計60立方メートルの岩があるとします。
石の比重というのが水に対して1.9。
つまり、3m×4m×5mの磐座は、約120トンあるんです。
この120トンが100個くらいの磐座が山の上に積んである。
どうして?
誰がやったのでしょう?
日本で一番大きな磐座は、私が知る限りでは広島県、安芸の宮島の弥山(みせん)です。
100トンくらいの磐座が100個くらい積んである。
どうして?
誰がやったのでしょう?
◎太郎坊について
太郎坊(たろうぼう:滋賀県近江八幡市)っていいうのはすごいキレイな磐座があるんです。
巨大な岩に、羊かんをたち落としたかのように1メートル幅に切ってある。
人間が切ったのであろう、南北にキレイに切ってあります。
太郎坊はおもしろい、切ってる場所がわかるので、見てみてください。
荒神山(こうじんやま:滋賀県彦根市)も磐座がある。
十三仏(じゅうさんぶつ:滋賀県近江八幡市)も山の上に磐座があります。
◎滋賀県の歴史
天皇家の歴史は建国から2700年あります。
滋賀県は3万年の歴史を持っている。
滋賀県の方は誇りに思っていいですよ。
暇があったら、三角形の山を見たら登ってみることをおすすめします。
今は、磐座はだいぶ破壊されてしまいました。
頂上にバカでかい岩が邪魔なので、そこにコンクリートの建物を建てるのに、叩き壊したのでしょう。
頂上から50、100mしたにゴロゴロした岩は全部叩き落とされたものです。
東西南北に方位石、「太陽石」といって、下の人たちに太陽の光を反射するのに、表面が磨かれた石があります。
太陽石も5,6個ありますね、近江には。
だれか、10年くらいかけて、「滋賀の磐座」って本を作ってくれないだろうか。
私がもし滋賀県に住んでいたら、旅行作家なんてしないで、磐座の研究をずっとしていたかもしれない。
今は登る体力がもたないので、できないのですが、だけど面白いですよ。
日本の創生起源というのは、滋賀県が高天原だったのではないかと私は思っているんです。
条件としては、淡水があること。湖東平野は日本で最大の水のかたまりがあったので、稲作がやりやすかった。
天皇家は日本に稲作を持ち込んできた民族の長であると思います。
長い文章になりますが、しばらくお付き合いください
◎自己紹介
この人は何者なのかと言うと、本業は旅行作家なんです。
長浜とか滋賀県とか琵琶湖とか結構詳しくて、滋賀県に宿泊した泊数をいうと、100泊はしていまして、
実は滋賀県は私にとってけっこう興味が深い場所なんです。
◎古事記、神話の話
このことを話すのに、神話の話をしなくちゃいけないのですが。
・・・・以下、簡略して紹介します。
・天地初めの神、『アメノミナカヌシノミコト』が混沌とした渦の中から、日本列島を作ります。
・アメノミナカヌシノミコトの右目をこすると、
『イザナギノミコト』が、
左目をこすると、
『イザナミノミコト』が産まれます。
・この2人が日本に降り立って、結婚しなさいということになります。
そしてできた子供のひとり目が、
『アマテラスオオミカミ』
二人目が、『ツキヨミノミコト』
三人目が、『スサノオノミコト』です。
・スサノオが高天原で悪さをするので、アマテラスオオミカミが天岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまいます。
・アマテラスが天岩戸から出る条件として、スサノオを高天原から追放してほしいと言い、スサノオは高天原から出ていくことになります。
・スサノオは出雲の国に降り立つと、ひとりの人が悲しんでいます。
訳を聞くと、ヤマタノオロチが悪さをして、自分の娘を生贄に差し出さなければいないということです。
そこで、スサノオが酒樽を用意しろと言い、お酒を飲んで酔っ払ったオロチを切り落とします。
・ヤマタノオロチの尻尾を切ると、剣が入っていました。
これは後に、『草薙の剣』といい、皇室の三種の神器になりました。
・スサノオは助けた娘、『クシナダヒメ』と一緒に住むことになります。
この場所が八重垣神社(やえがきじんじゃ:島根県松江市)でした。
・スサノオノミコトとクシナダヒメが結婚をして、その孫に、
『オオクニヌシノミコト』が産まれます。
・スサノオの武勇の荒ぶる力と、オオクニヌシの心優しい温かさで、出雲の国は巨大な国に支配を広げていきます。
◎出雲の支配地域
出雲の国は九州、中国、四国全部と、日本列島半分を出雲が支配していきます。
糸魚川の『安曇野(あずみの:長野県安曇野市)』は“いずも”がなまって出来た地名です。
その他、渥美半島、熱海、伊豆大島、伊豆半島も『あずみ、えずみ、あずみの』からなまった言葉です。
今、土地のあざ名が全部書いているの風土記に、
『出雲国風土記(いずものくにふどき)』
というのがあります。
これまでに言った、出雲の支配地域の土地の名前が全部書いているのですが、支配地域の中にありながら、ぽっかりと穴が開いているかのように支配をしていないところがあるんです。
これが、高天原だったのではないかというのが私の推論です。
それはどこかというと・・・・
「湖東平野、琵琶湖の東岸です。」
滋賀県は小林正観の説によると高天原だったんです。
◎磐座(いわくら)研究家
小林正観は旅行作家と共に磐座の研究家だったんです。
今までに、神や宇宙と交信しているという人、10人に、
「磐座は何年前のものか」、と聞くと10人とも
「3万年前」と答えた。
そのあとに、磐座とは何かと聞くと、10人とも答えられなかった。
磐座を知らないで3万年前と答えたが、磐座が何かと聞くと答えられなかった。
(注:この10人といのは、横のつながりはなく、まったく別の場所で、別のときに聞いたそうです。)
◎近江の磐座
磐座は3万年前から、三角形のきれいな山のてっぺんにあるのですが、これを、
「神名備山(かんなびやま)」と言います。
近江には磐座を持っている山が50個もあるんです。
日本で一番密集している。ほとんどの山に登りましたが、日本でここだけおかしい。
滋賀県には滞在日数が多くて、三角形の山を見ると登ってみて磐座を確認した。
ひとつの地域で三角形の山があり、磐座があるところは他にないんです。
ここが高天原だったのではないか。
高天原は日本列島の中で稲作をするところ、それには淡水が絶対に必要なんです。
20万、30万の人たちが生活をするには、平坦の土地で、水があるところ。
条件として湖東平野しかない。
◎磐座の重さと、日本一の磐座
湖東平野の高天原に3万年前に磐座を作っていた人々がいた。
現在のクレーン車では35トンまでなら持ち上げることができます。
磐座はどのくらいの重さだったのでしょうか。
縦、横、高さが、3m×4m×5m、合計60立方メートルの岩があるとします。
石の比重というのが水に対して1.9。
つまり、3m×4m×5mの磐座は、約120トンあるんです。
この120トンが100個くらいの磐座が山の上に積んである。
どうして?
誰がやったのでしょう?
日本で一番大きな磐座は、私が知る限りでは広島県、安芸の宮島の弥山(みせん)です。
100トンくらいの磐座が100個くらい積んである。
どうして?
誰がやったのでしょう?
◎太郎坊について
太郎坊(たろうぼう:滋賀県近江八幡市)っていいうのはすごいキレイな磐座があるんです。
巨大な岩に、羊かんをたち落としたかのように1メートル幅に切ってある。
人間が切ったのであろう、南北にキレイに切ってあります。
太郎坊はおもしろい、切ってる場所がわかるので、見てみてください。
荒神山(こうじんやま:滋賀県彦根市)も磐座がある。
十三仏(じゅうさんぶつ:滋賀県近江八幡市)も山の上に磐座があります。
◎滋賀県の歴史
天皇家の歴史は建国から2700年あります。
滋賀県は3万年の歴史を持っている。
滋賀県の方は誇りに思っていいですよ。
暇があったら、三角形の山を見たら登ってみることをおすすめします。
今は、磐座はだいぶ破壊されてしまいました。
頂上にバカでかい岩が邪魔なので、そこにコンクリートの建物を建てるのに、叩き壊したのでしょう。
頂上から50、100mしたにゴロゴロした岩は全部叩き落とされたものです。
東西南北に方位石、「太陽石」といって、下の人たちに太陽の光を反射するのに、表面が磨かれた石があります。
太陽石も5,6個ありますね、近江には。
だれか、10年くらいかけて、「滋賀の磐座」って本を作ってくれないだろうか。
私がもし滋賀県に住んでいたら、旅行作家なんてしないで、磐座の研究をずっとしていたかもしれない。
今は登る体力がもたないので、できないのですが、だけど面白いですよ。
日本の創生起源というのは、滋賀県が高天原だったのではないかと私は思っているんです。
条件としては、淡水があること。湖東平野は日本で最大の水のかたまりがあったので、稲作がやりやすかった。
天皇家は日本に稲作を持ち込んできた民族の長であると思います。
Posted by 近江磐座研究会 at 23:33│Comments(0)
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